|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
ライフログ
検索
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
初めて『OK COMPUTER』を聞いた、
15の時、 トム・ヨークの言葉の意味は、まったくわからなかった。 でも、 今なら、少しはわかる気がするよ。 ほんの、少しだけ。 でも、それが、全てかもしれないし、ただの自己欺瞞かもしれない。 わからなくてもいいのかもしれないし、でも、わかりたいとも願うんだ。 ずっと、 抱いていたのは、懐疑、ばかりだったから。 『交通手段 車道に線路 出発、停止 離陸、着陸 空虚な感情 めめしいたわ言 酒びたり 中途半端な充足 失意 落胆 惰性 虫ケラみたいに踏み潰されて 落ち込み、無為に過ごす 砕けた貝殻 あふれる果汁 バタつく翼 先走る足 感傷的になるな 最期はどうせ戯れ言に終わる いつか必ず 俺は羽を生やす ヒステリックで無意味な化学反応 ヒステリー、スランプ、優柔不断 虫ケラみたいに踏み潰されて ここが居場所だ 床が崩れ落ち、跳ね返ってくる いつか思い知るんだ 自分の居場所を』
何から、、、
『官能漂流』 とろける匂い 短い時が経つ 意味深く並べた 無機質なふるまい 手に触れる まぶたがふるえる 安らかな夢はつづく かけだす感情に 言葉は先立つ かわいた愛に 浮かんだ華を 咲かせて 口びるに 胸に しめらせて 強く かきたてる思いに官能する夜に 偽り先走っても 浮かされる夢に 愛をよせて 愛しい記憶 かすれた朝の匂い 重なる手のひら 呼吸が目を覚ます 体が熱く 潤びる耳の奥 よび醒ます感情に 火照る声はやさしい うすれていく狂気と永遠の間に 愛がとまる思いかみしめた 温めて強く 逆走する思いに官能する夜に 偽り先走っても 浮かされる夢に愛をよせて なぞる指がさす青さ 咲くだけ咲いた今を 永遠にそそいで 愛がとまる思いかみしめた 温めて強く 初めて聞いた曲。 だから、 イメージは、今も過去もロックでしかない。 陶酔。 耳の内から鳴り響き、 視線の先で、 映し出される風景に、 物語を与えてくれる。 日常が、ロードムービーになる。 全てが再構成される。 何を、 捨てたのか、 それとも 拾ったのか。 そんな音楽をかき鳴らす。 6年前にこの曲を含む、 『SWING FOR JOY』 と出会った。 以来、 側にはいつも、EGO-WRAPPIN'の曲がある。
交わることはない
悲痛な叫びを尻目に 空から落ちるは鳥の糞 塗れたらいい 埋もれたらいい 白い誘惑 粘着質への憧憬 記憶など必要ない 空の高さは十分だ でも、 時の長さは不十分なのだ 原風景、 未だ 発見されなく、 モノクロの砂漠が、 網膜に焼き付く。 黙殺への罪。 そして、 嘲笑への罰。 空き瓶に閉じ込められた、好色男と女の、活劇ロマン。
甘水のカンバ性ション。
等閑事などのたまふ。 苦水のコミュニ刑ション。 絵空事と諦めなさる。 ラフター・イン・ザ・レイン。 雨に唄えば。
堕性。
すなわち、 高性能に、静止した、羅列の恐怖。 有性。 すなわち、 落日の、境界線が、交配する希望。 心は、 未だ、 雲散霧消。
滲み出る。
美徳。 垂れ流される。 隠匿。 吐き出されたのは、苦渋の言葉。 つまり、 螺旋への冒涜。 トイレの鍵は、施錠されたまま。 故に、 吐瀉物への神託。
キレイなものが好きdato、
ほざけばいい。 おそらく、この世は、未だ、20世紀。 不可視なものは、依然、蚊帳のsoto。
温かい飲み物と歯ブラシを
両手に抱え、 さて、 行き先はどこだ。 理解をした頃、 おそらく、既に、 行方不明。
自己顕示欲。
保存中毒。 まっとうな、21世紀を。 ぼくは、 ボタンを押す。 掛け違いの、ボタンを。 何も起こりはせぬ。 ただ、 頃合いは見るべきなのだ。
少しの身振りが、
優しかった。 ただの一言は、 冷たかった。 肌に触れられるのであれば、 ほんのちょっとだけ、 心地よい。 甘い、ただ、甘い香り。 ぼくの記憶、記憶の匂い。 イメージは、いつか、五感をも支配するのだろうか。
先日、とある地方のネットカフェにて。
ぼーっと、していると、 何故か、 耳慣れた音楽が聞こえてくる。 何だろ、、、 JAZZANOVA? しかも、曲は、 HANA-ZONO。 なんだ、この店。 やるな、ナイスチョイス。 おそらく有線だろうが、、、 たかだか、二年や三年そこらの前のレコードなのに、妙に懐かしい感じがした。 家に帰っては、速攻で、箱をあさって引っ張りだす。 無条件にかっこいい。 無駄口なんてたたけなくなる。 ただ、 匂いのある音楽をする杞憂な人達。 とにかく、美的。 暗闇に投影される、 イメージの渦の中に巻き込まれていく感じ。 目を閉じて、ただただ、心酔していたい。 と、やはり、無駄口をたたいてみる。 思えば、 この人達も、ドイツのグループ。 無意識のうちに、 ドイツを背景に生まれるものに、心惹かれている。
占いとかを信じるタチではないが、
on TV. あなたの、今日の、運気をUPさせるポイントは、 綺麗な景色の見えるビルの屋上で深呼吸をすることです。 なんて、いかにも、スローライフという語気にちなんでみました、みたいな結論を当て付けられたが、 とりあえず、なんとなく、のってみた。 結果。 愛犬の遊び道具と本屋に行ったついでに、 近所の百貨店の屋上へと出てみたのだが、 悪くない。 むしろ、心地よい。 まんざら、嘘でもない。 たまには、こんなのも良い。 その後、 『映像の修辞学』 ロラン バルト を本屋で1時間悩んだ末に買う。 記号学の勉強なんかをする機会もあって、バルトの文章は断片的に読んでいたのだが、 この書、なかなか、読み応えがある。 忘れていた事が、体系的に頭の中に浮かんでくる。 しかし、 こんな好きな本を、自由に読んでいられるのも今だからであって、 来年からはそうも言っていられなくなるのかと思うと、 少々、悲しくなるが、 抽象を具体化する作業に、 身を投じられるのだと思えば、 その気持ちも、少しは和らぐ。 ブニュエルいいよね? と言い、どれだけの人が共感してくれる世界か知らないが。 一時期、あることがきっかけで、その道に進むか迷った事もあると、告白するが、 どこまでも単純明快なぼくは今、モチベーションが高い。 やっと、作るべき物を見つけたから。
ここ数日、
過去の自分の行動を、思い出しては、悔いている。 マイナス思考だと、なんだと言われようが、 意味もなく、考えてしまう。 こんなもの、言ってしまえば、ナルシズムなのだと、思う。 そして、単なる、逃避癖なのだ。 『一切が終わったら遠ざかることだ(神あるいは女から)』 と、カミュは言う。 まさに、その通りだ。 逃げるのではない、遠ざかるのだ。 しかし、 意識が、ゆるりと、強迫観念に変わりつつある。 そんな時だから、 ZAZEN BOYSを聴く。 『HENTAI TERMINATED』 HENTAIがいっぱい HENTAIの団体 大体がHENTAI 全 員 HENTAI やはり、 有無を言わさず、遠ざかるべきなのかもしれない。
初めて観た時、もう2度と観たくはない、と眼を被った。
何かが突き刺さったような痛み。 恐怖でもない、悲しみでもない、何か。 その痛みの源泉は、やがて瘡蓋となって、剥がれ落ち、消え行くものであると思っていた。 あれから、4年。 ふとしたことから、このフィルムを手に取り、観ようと考えた。 何故だろう。 理由はよくわからない。 衝動に駆られたのは確かであるが。 痛みを忘れてしまったぼくのカラダが、その何かに吸い寄せられたのかもしれない。 このフィルムは、 厳密なデクパージュによって撮られたフィックス構成におけるミュージカルシーンとして描かれる空想の部分と、手持ちカメラによるいわゆるドキュメンタリータッチに描かれるアクチュアルな部分の相互関係によって進展していく。 いわゆるドキュメンタリーとして認識される類いのものとは、 そもそも、映像を観るという行為が覗き見なのだと定義したとすれば、 およそ、厳密に構成されたものよりも、人間の実際の視線に近いものの方が、アクチュアリティを増幅させるということから、現実への介入の手段としての方法論として用いられる。また、実行為として有用な手段であるが故に、手持ちカメラを用いるのは、なるべくしてなったということであろう。 しかし、それは、あくまでも、覗き見行為なのであり、実際の無秩序な現実らしさを見せることに終始しているとなった場合においては、制作者の欺瞞を露にする。 つまり、あくまでも映像とは1人称の行為から産出されるイメージなのであり、また、それがモンタージュによって構成されるものなのであるが故に、現実とは切り離されるべきものであるという、当然のような結論が導かれる。 だが、そもそも、 現実とは何なのであろうか。 現実とは、イメージの集積ではなかったのか。 そこで、このフィルムにおける二重構成というものの意味が見えてくる。 ドキュメンタリーのように見せる事で、アクチュアルな部分を増幅させる一方で、 空想、つまり、盲目の主人公セルマの脳内映像を対比させることによって、前者を異化させる。換言するのならば、空想とは体感から生まれるものであり、無数のイメージによって編まれた現実のイメージの糸を解くという効果を持つのである。 イメージの源泉はどこにあるのか。 それは、自己の体内の中にある。 そこから、構成され、産出されるものである。 人間も1つの自然である、という単純だが、イメージの洪水に飲まれる生活においては、 不可欠な結論が導きだされる。 それは、理想論としての、忘却や隠蔽としての機能を内包する、 ロマン主義、自然主義とは遠くかけ離れたものとして。 現実とは、個々人の体験、そして体感の集積なのである。 それは、主観と客観などという、近代的な認識論とはかけ離れた所で行われるべきものとして。 ジェフ『眼が見えないのか?』 セルマ『見るべきものなんてある?』 ところで、 ドゥミの『シェルブールの雨傘』の カトリーヌ ドヌーブがこのフィルムでミュージカルをやっていたり、 ヴェンダースやジャームッシュの撮影監督を勤めた、 ロビー ミュラーがビョークを撮影していたりと、様々に特筆すべき点もある。 4年を経過して観ても、何も変わりもしなかった。 痛みの部位は瘡蓋のままで、剥がれ落ちてなんかいなかった。 ただ、見えない所に、隠し続けていただけなのだろう。 しかし、1つだけ変わったこともある。 痛みは、已むべきものから、引き受けるべきものへと変化した。 ぼくはきっと、この先もずっとこれを抱え続けるのだと思う。
クローネンバーグ。
言う事ない。 抜群に面白い。 理性とは、そして、文明とは何か。 快楽こそが至上の命題。 遥か彼方の、彼岸のエロス。 感情とは、そして、進化とは何か。 ここに、 塚本晋也『鉄男』、 そして、大友克洋『AKIRA』を想起する。 モダニズムの解体。 人間そのものが脱構築される。 しかし、 根底は、メロドラマという、その最大の遺産に託した、 究極のファミリーロマンス。 そこに、ハリウッド映画に残っている、良心を垣間見る。 これでこそ、映画。 とかく、グロテスクなメイキャップが取り上げられることが多々あるが、 それはあくまでも素材なのであって、 クローネンバーグの知性が、 それを軽く凌駕し、 その演出によって、豪華絢爛に調理されているのである。 待望の新作、『A History Of Violence』 2006年公開予定。
何かがあったわけではないし、
何もなかったわけでもない。 何かを見たわけではないし、 何も見なかったわけでもない。 諦念。 妥協じゃないと、言い聞かす。 でも、 忘却であったと、言い負かす。 逃避じゃないと、泣き濡れる。 でも、 邂逅であったと、泣き笑う。 幸福ではない。 不幸でもない。 だから、祝福の円環運動の中へ、 身を委ねたい。 ほんとは、 ずっと、偽ってきたけれど、 今、やっと、ぼくの、心はヒドく穏やかで、 風呂上がりの身に当たる、 半開きのドアから入る、 冷気がとても心地よい。 この空白だった二ヶ月を、これから満たそう。 きっと、遅くはない。 ![]()
これは、何年経っても、時たま引っ張りだしては、
今だに良く聞く大好きな、レコードで、 度々、お世話になりました。 クラブジャズムーヴメントの原型みたいな、メンツ。 MONDO GROSSOやら、DJ KRUSHがいたり、 吉澤はじめさんのBOSSA FREEがあったり、 現SLEEP WALKERの原型のBIG WRONGが、SLEEP WALKERって曲をやってたり。 (しかし、SLEEP WALKERのライブは二度ほど観たけど、とにかく凄まじい。そして、心地よい。) 濱マイクのテーマのリミックスもやたらカッコいい。 とにかく、ムーヴメントなんかじゃ語れない、 ホントのクラブジャズの楽しさが、これにはあると思う。 ![]()
初めて聞いたのは、10年前。
『POST』 それ以来、 Bjorkとは、 ぼくにとって特別で、あまりにも圧倒的な存在であり、なんて形容していいのか、 未だにわからない。 色々な言葉を援用して語るのは、容易に出来るであろうし、 〈例えば、フロイトの言う『エロス』と『タナトス』という視点から考えてみたり、〉 けれども、そんな見解を示したところで、あまりにも意味のないものに感じてしまう。 ただ、1つ言える事は、 カリスマとして、または、ポップアイコンとして見られている事が多々あるが、 彼女の本質は、どこまでも人間臭さをもっているところであり、 ぼくは、そこに惹かれ続ける。 人間の声が、こんなにも美しいものであると、Bjorkを聞くまで、感じなかった。 日本の近代化に伴いもたらされた、日常で使われる、 “芸術”という意味から引き出される“Art”という概念ではなく、 常に、正確な意味での“Art”を体現している人なのだと思う。 だから、どこまでも、人間らしい。 新作、 マシュー バーニー『拘束のドローイング9』 のサントラも素晴らしい。 ![]()
『海が嫌いなら
山が嫌いなら 都会が嫌いなら 勝手にしやがれ』 座右の銘。 a bout de souffule/息切れ
忘れるには、どうしたら、いいのだろう。
ある映像がアタマに投影される。 ただ、優しく微笑みかける。 それだけのイメージ。 メランコリックな気分に浸っている、というのは、充分すぎる程にわかる。 本当の所、未だに何も払拭出来ていない自分が、あまりにも情けない。 少しでも近付きたくて、普段とおらなかった路線の電車に乗る。 街へ出ると、無意識に人並みを目で追っている自分に気付く。 そして、Sigur Rosを聞くたびに、心が砕けそうになる。 ここまでして、 ぼくは、何を共有したいのだろう。 偶然か、それとも、必然か。 どこかで繋がってはいる。 おそらく、ある共通のイメージを介して。 でも、それは、近くて、遠い。 少しずつ、色褪せていく。 ぼくも、そして、おそらく、もう、、、 忘れたいのだろうか、忘れたくないのだろうか、 きっと、 忘れることは出来ない。 でも、 思い出すことは出来る。 そうなのかもしれない。
真っ当なこと。
いわゆる、道徳。 例えば、 他者に対して興味を抱く事(強制として)。 つまり、 嫌悪は好意に、好意は嫌悪にと、 それらは、転じ得るものなのかもしれないという理由故に、無関心は罪とされる、ということ。 果たして、そうなのだろうか。 それは、おそらく、自己保存の欲求から訪れる、単なる欺瞞に過ぎない。 世界を知り、己を知らず、形成されるアイデンティティ。 つまり、インテリの戯れ言。 知る事と感傷を重ね合わせことは、異に介する。 それらが、同一のもであるなら、道徳的思考で言われるリアリティとは、およそ、バーチャルなものでしかない。 何が恐ろしいかと言えば、それが、対象者に対し、抑圧を及ぼす時であろう。 好意であろうと、嫌悪であろうと、それが無知故に、または、一般化した上で 彼ら(彼女ら)にもたらされるとするのであれば、 それは、想像力の欠如した、画一的な判断でしかなく、 そこでの関心などから何も生まれはしまい。 リアリティなど、はなからそこにはないのだから。 世界を知ろうとすることと、自己の内部を知ることは、 およそ、覗き見る、という行為において同義である。 見られているという体感がなければ、見ることなんて、必然的に無理な話だ。 それらが失われ、理性に括られた判断が行われることなど、まっぴらだと思う。 『RIGHT ON BE FREE』 『SIMPLE SONG OF FREEDOM』 冒頭の2曲をとっても、 ある種の、政治的なコンセプトアルバムとして捉える事は、可能であるが、 そうではない。 ヴォイセズ オブ イースト ハーレムは体験としての、 圧倒的なリアリティを持つ。 だから、ぼくらが、それを享受することは、不可能である。 しかし、熱としての、それを受け取る事は、可能であろう。 政治的な抑圧は、人間性に溢れた文化を生み出す。 それは、無意識に渡される、道徳からの解放がなされようとするからである。 政治的な優勢と文化のそれは、決してイコールなどではない。 人が人に立ち返ろうとする行為が発する体温は、常に、「美」に満ちあふれている。 ![]()
想像力が奪われる事が、多々ある。
奪われるというには、語弊があるかもしれない。 放棄。 そうなのかもしれない、 ぼくは、自らそうしている。 画一的な世界に、 つまり、ユートピアに、おぼえる安らぎ。 そこは、何も、滲まない、ただ1つの風景。 魯迅は『野草』の中でこう記す。 「 だが暗夜はそもそも、何処にあるのか。今は星なく、月光なく笑の渺茫と愛の乱舞さえない。青年たちは安らかである。そして私の前には、ついに真実の暗夜さえないのだ。 絶望の虚妄なることは、まさに希望に相同じい。 」 けれども、 そうも言ってられない。 ぼくは、対峙しなければいけない、荒涼とした砂漠と。 そして、それを見定めなければいけない、ありったけの想像力を持って。 「血が冷たい鉄道ならば 走り抜けてゆく汽車はいつか心臓を通ることだろう 同じ時代の誰かれが 地を穿つさびしいひびきをあとにして 私はクリフォード ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男だ そうだA列車で行こう それがだめだったら走ってゆこうよ」 寺山修司『ロング グッドバイ』
とにかくキョウレツ。
これを読んだ時の衝撃は、未だに、忘れられない。 極めてアナーキーだった頃のベルトルッチの映画、 『暗殺のオペラ』にて、この短編小説(そう括る事がそもそも間違いだと思うのだが、あえて) の中の1つである、「裏切り者と英雄のテーマ」が原作にされていたことを知り、 それをきっかけに読んだ一冊。 とにかく、 冒頭の一遍、『トレーン、ウクバール、オルビス テルティウス』で、やられた。 「交合と鏡はいまわしい...それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。」 当時のぼくは、寺山修司と映画監督の吉田喜重に夢中だったので、 凄く、この文章は、ダイレクトに響いてきた。 厳密に、言葉の意味として、定義されるような『実存主義』ではなく、 それを、シュルレアリスムにおけるオブジェとして考えた場合の、 サルトル「嘔吐」の作品性に近い感じは受ける。 そして、ある種、ニーチェにも通じる、宇宙観。 つまり、『永遠』について。 とにかく圧倒的で、そして、突き抜けている。 うだうだ言ったけれども、 要は、 ぼくのような、若造が語れるような、作品ではないのである。 未だに、よくわからない。 否、わかってたまるか。 しかし、 決定的な影響を、ぼくに与えたのは確か。 それでいいと思う。
カラダは自然と、カーニヴァル。
アタマの中が、Punk寸前。 ココロがキッチュなもので満たされたとき、それを浄化してくれる、数少ない音楽、の一つ。 認識の果て、『美』との同化。 結局は、体感でしかない。 これまで、色んな音楽、聞いてきたつもりだけど、 なかなか、こんなアルバムには出会えない。 これに準じて、 教科書通りな感じで、 Portishead、TRICKYやらを聞いた、若かりし頃の、ぼく。 ブリストルな感じで、トリップポップ 工業都市の閑散とした風景が眼に浮かぶ。 近代の贖罪。 アントニオーニの『赤い砂漠』がイメージとしてこびり付く。 イメージとは、如何せん、おそろしや。 ぼくは、きっと何も知らない。 でも、知った気でいる。 それが、なかなか、罪深い。 でも、知らないよりもましだ、とも思う。 やはり、体感なのだ。 とにかく、 マッシヴは別格に、素晴らしく、 『赤い砂漠』の、モニカ ヴィッティは、別格に、美しい。 Pop Musicは、常に、こうあるべきであると、勝手に、思う。 ![]()
“ I do'nt care if it hurts,
I want to have control, I want a perfect body, I want a perfect soul, I want you to notice, When I'm not around, You're so fucking special, I wish I was special. ” ぼくの、 とても大切な曲。 何度も、この曲に、クライシスモメントを救われた。 だから、久しぶりに、聞いてみた。 あれから、 ずっと空虚だったから。 涙が出て来た。 流れ落ちる速度は、緩やかだった。 追いつける。 追いつかなくちゃいけない。 これからも、おそらくずっと、聞き続ける。 何かある度に。 『As for her,it was saved the life by rock'n roll 』 と、Velvet Underground は歌ったけれど、 ぼくも、やはり、そうであって、 何か決定的に自分の中に欠けていると感じる時に、 それを埋めてくれるものは、 いつも、Rockであったし、これからも、そうであると思う。 原点はいつも、ここにある。 どんなジャンルの音楽を聞いても、結局は、この文脈で感じ取っているのだと思う。 “But I'm creep, I'm weirdo, What the hell am I doing here? I don't belong here, I don't belong here.” ![]()
細かいことは抜きにして、よいです。
テンションあがります。 『You cant go home again』のPVは、 なかなかよいです。 ここ数年、 DJ SHADOW、もしくは、UNCLEのCDは、出かける時、必ず持ち歩きます。 ついでに言うと、mumも。 何かと、その日の気分で、使い分けます。 ぼく、 DJなんてことやってたこともありましたが、 これを聞くたびに、DJって言っていいものかどうか、申し訳無い気持ちでいっぱいになります。 80s ポストモダン論争を彷彿。 素晴らしい。 ![]()
あの時、
何物にも代え難いものを、 ぼくは、失ったのか、それとも、得たのか。 安住していた、心地よい風景を、 網膜から引き剥がされた代償は、 あまりにも大きかった。 今や、イメージは、衝動とはかけ離れた所に実在し、 言葉における、不正確な意味での、それしか、 持ち得る事が出来なくなった。 ぼくは、夜に飲み込まれる。 そして、 谷崎の『春琴抄』に、憧れる。 おそらく、一つの強迫観念として。 つまり、自己の内部に浸透させた懐疑として。 きっと、 ぼくは、 何も失っていないし、何も得ていない、のだろう。
おそらく、
幾ばくの猶予もない。 ただ、あざ笑い ただ、泣き濡れるだけ。 徒然なるままに、日暮らし。 クリスティーン(mum)の声は、 どこまでも、優しく。 どこまでも、温かく。
ザンダー展。
国立近代美術館にて、 拝見してまいりました。 ついでに、 現代ドイツの写真展も、 拝見してまいりました。 ザンダーの写真は、本当に、よいです。 ドキュメンタリーの概念が、 如何に、欺瞞的なものであり、且つ、素晴らしいものであるのか、 という逆説を、まざまざと見せつけてくれます。 ぼくの映像制作の原点は、やはり、ここにあります。 ザンダー、ニーチェ、ベンヤミン。 やはり、ドイツ的なものや思考に惹かれます(語弊があるかもしれませんが)。 もっと言えば、ドイツ的なものを乗り越えようとする思考でしょうか。 自然主義的な怠惰を、如何にして、破壊していくのか。 ロマン主義とは、何物にも代えられない、それこそ、ノスタルジア。 感傷とは、いいものなのか、悪いものなのか。 未だに、結論がでません。 しかし、 内的な衝動を体験として得る事。 そして、 外部を覆い尽くすものに対する、そこからのフィードバック現象。 難しい、な。。。 ところで、現代ドイツの写真展の方。 初夏の、ドイツ映画祭もそうであったけど、 テーマが、 東西統一後の 東ドイツにおける問題というものが、 かなり多かった気がします。 ということで、 『人間を形作るのは食物であり、人間の活動を包む空気と光であり、人間が行うし、あるいは行わない、労働であり、そして各人が属する階級に固有なイデオロギーである。』 アルフレート デーブリン。 勉強になります。
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||